「会社員なら毎月給料が入るのだから、人的資本は債券を持っているのと同じだ」。 投資の世界では、これに続けて「だから金融資産はすべて株式(株式100%)で運用していい」と主張されることがあります。 人的資本(将来稼ぐ力)を資産配分に組み入れて考えるアプローチ自体には、確かな合理性があります。 しかし、給与を生み出す力を「無リスクでいつでも換金できる債券」と同列に扱ってしまうと、議論が飛躍し、判断を飛ばしすぎることになります。

人的資本は「債券」ではなく、将来の所得への権利

人的資本は、これから働いて得る給与などの将来所得を、いまの価値に置き換えて考える概念です。 その価値は、職種や雇用の安定性、年齢、健康状態、所得の変動幅、そしてこれから働ける期間によって大きく変わります。1 個別債券では、発行体の債務不履行がなければ、契約条件に応じて利息や元本が支払われます。 一方の人的資本には、そうした契約上の保証はありません。 失職や病気で途中で所得が止まることもあれば、転職や昇給で増えることもあります。

また、給与と株価が同じ方向に連動して動くかどうかも、すべての人に共通する決まった関係があるわけではありません。 シカゴ連銀の研究レビューでも、労働所得と株式市場リスクの相関について、連動が弱いとする推計もあれば、分析モデルの設定によって結果が分かれることが紹介されています。1 たとえば、株安のあおりを受けて業績が悪化しやすい業界で働いているなら、給与や賞与も株式と同じように下がるリスクを抱えています。 反対に景気変動の影響を受けにくい職種であっても、勤務先の倒産や本人の健康リスクといった個別の不確実性は常に残ります。

換金できない所得と、売却できる金融資産を分ける

人的資本から毎月の給与を受け取れるとしても、将来もらえるはずの給与を今日まとめて現金化(売却)することはできません。 もしまとまった生活費が必要になったタイミングで株安に見舞われ、さらに給与まで減ってしまうと、相場の底値で株式などの金融資産を投げ売りせざるを得なくなるリスクが高まります。 「毎月給料から入金を続けられるから株式100%で大丈夫」と考えるなら、給与が減ってしまう局面や、急に現金が必要になる時期まで想定に入れておく必要があります。

金融資産の役割を比べると、それぞれの違いは次のようになります。

資産・権利受け取るもの主な揺れ方
株式企業の利益・配当への持分企業業績、金利、景気、期待で変わる
現金すぐ使える残高と、その時点の預金利息物価で実質的な購買力が変わる
債券利息や価格変動による収益金利、信用、満期、為替、売買価格で変わる

現金は、万一の事態にすぐ対応できるよう、生活防衛資金として手元に置いておくものです。 一方で国債や債券ファンドは、商品によって満期や金利、通貨、市場価格の動きがあり、いつでも額面通りに使える現金とは性質が異なります。

債券にも「株式と違うリスク」がある

固定金利の債券は、市場金利が上がると相対的に魅力が薄れるため、一般に市場価格が下がります。2 反対に市場金利が下がれば、以前の高い利息(クーポン)を受け取れる既存の債券は人気が集まり、価格が上がることがあります。2 信用力やクーポンなど他の条件が同じであれば、一般に満期(償還)までの期間が長い債券ほど、金利の変動に対する価格の感応度が大きくなります。2 発行体の破綻がなく、満期まで保有すれば額面通りに払い戻される個別債券であっても、満期を待たずに途中で売却する場合は、金利上昇によって売却額が元本を下回ることがあります。3 また、投資信託などの債券ファンドには、ファンド全体が特定の満期日に一括償還される仕組みはありません。 組み入れている債券の日々の価格変動が、そのまま基準価額に反映されます。4 外貨建ての債券の場合は、現地通貨建てでの債券価格が変わらなくても、為替相場の変動によって円換算での評価額が増減する為替リスクも抱えます。5

したがって、債券を「株式の反対側にある安全資産」とひと括りに捉えるのは正確ではありません。 実際に2022年には、長期金利の急上昇と投資家のリスク回避を背景に、米国債の価格と主要な株価指数がそろって下落したと米連邦準備制度(FRB)が記録しています。6 このように株式と債券が同時に下落する局面も存在し、資産を分散したからといって下落損失を完全に消せるわけではありません。 債券を資産配分に組み入れるのであれば、その資金を何年後に使うのか、円建てで必要なのか、満期まで持たずに途中で売却する可能性があるのかを、あらかじめ決めておく必要があります。 現金は金利が上がっても元本そのものの市場価格が下落することはありませんが、債券は金利低下局面で価格上昇の恩恵を受けられるなど、両者の金利に対する反応の仕方は根本から異なります。2

リバランスは、下落を耐えるためのルール

手元に現金や、株式と異なる値動きをする債券を持っていれば、株価が急落して資産全体の株式比率が下がったときに、買い増して元の目標比率へ戻すことができます。 この配分比率を整え直す売買が「リバランス」です。 株式の比率が下がった後に買い増す行動は、結果として価格が下がった資産を安く買う取引になります。 ただし注意したいのは、相場の底がどこにあるのか、いつ回復するのか、そして株式だけを持ち続けるよりも本当に高い収益になるのかは、事前には誰にも分からないということです。

また、日々の暮らしを守るための生活防衛資金と、相場急落時に追加投資やリバランスへ回す資金は、同じ財布として扱ってはいけません。 再配分のために手元の現金をすべて使い切ってしまうと、万一その後に給与がストップした際に、底値の株式を取り崩さざるを得なくなります。 まずは数か月から数年分の支出を生活防衛資金として現金で確保し、残りの運用資金でどこまでの下落幅なら耐えられるかを考えるのが鉄則です。

3,000万円の半分が消えたら、入金何年分か

金融資産が3,000万円あり、相場急変で全体が50%下落したと仮定すると、損失額は1,500万円に達します。 この数字は将来の相場回復にかかる年数を計算したものではなく、家計にとって損失の重みを実感するための試算です。

年間の追加投資額1,500万円に相当する年数
100万円15年分
200万円7.5年分

実際の運用における損失の影響は、相場の動きや為替、税金、生活費の取り崩し、そして積立入金を無理なく継続できるかどうかで変わってきます。 また、損失の金額が大きくなるほど恐怖心も綺麗に比例して大きくなる、と心理学の理論だけで機械的に割り切れるものでもありません。 ここで何より大切なのは、「給与が途切れることなく入り続ける」という前提が崩れてしまった場合にも、慌てて投げ売りせずに耐えられるだけの現金と、腰を据えて待てる投資期間が手元に残っているかどうかです。

配分は「人的資本の有無」から一段深く考える

人的資本を考慮に入れて資産配分を決めること自体は、理論的にも理にかなっています。 相場の下落にどれだけ耐えられるかを客観的に見極める考え方は、リスク許容度を測る記事でも扱っています。 ただし、確認すべき思考のステップは「給与があるから債券ゼロでいい」といった単純な結論ではありません。

  1. 失業や病気、転職によって、一時的に所得が減ったり途絶えたりする期間を想定する。
  2. 株式相場の急落と本業の給与悪化が同時に起こりやすいかを、自分の職種や勤務先から点検する。
  3. まずは生活防衛資金を現金でしっかり確保し、何年間生き延びることができるかを計算する。
  4. 相場下落時にも慌てて売却せず、定めた比率へ戻せる運用金額とリバランスのルールを決める。

この手順を踏めば、人的資本の強みを活かしつつも、今すぐには換金できない将来の給与を「無リスクな安全資産」と錯覚してしまう過ちを避けられます。 債券を持つかどうかは、「人的資本があるかどうか」という表面的なラベルだけで決まるものではありません。 お金を使う時期や必要な通貨、本業の雇用リスク、そして相場下落時に自分が耐えられる損失額を総合的に照らし合わせて判断すべき問題です。

脚注

  1. Federal Reserve Bank of Chicago, The Value and Risk of Human Capital は、人的資本の価値を将来所得の現在価値として扱い、労働所得と株式市場リスクの相関について複数の研究結果とモデル上の含意を説明しています。 ↩ ↩2

  2. Investor.gov, What Are Corporate Bonds? は、市場金利上昇で債券価格が下がり、満期が長いほど金利リスクが大きいと説明しています。 ↩ ↩2 ↩3 ↩4

  3. Investor.gov, Bonds, Selling Before Maturity は、満期前売却では金利上昇時に額面を下回る場合があると説明しています。 ↩

  4. Investor.gov, Bond Funds and Income Funds は、債券ファンドにも信用リスク、金利リスク、繰上償還リスクなどがあると説明しています。 ↩

  5. FINRA, Bonds は、外貨建て債券の収益が為替レートの変化で増減し得ると説明しています。 ↩

  6. Federal Reserve, Financial Stability Report 2022 は、2022年に長期国債利回りの上昇とリスク回避が、長期国債価格と幅広い株価指数の下落に寄与したと記録しています。 ↩